さとうきび畑が教えてくれたこと
いい朝には、きまって心に思う言葉がある。
「ありがとう」
いつからだろう。
我中心で生きていた思春期に、気づいたことだった。
時期になるといつも手伝わせられる実家のサトウキビの収穫。
少年期はまだ力不足で、簡単な作業のサトウキビの収穫も、
中学生となるとナタを待ち1本のキビの根っこをめがけ、力いっぱい何度も振り下ろす作業を任される。
その重労働さといえば、筋肉痛が止まないどころか腕があがらない状態になる。
口だけで、たいした忍耐力も精神力もないくせに、ことその時期がやって来ると、言い訳を並べて家族の手伝いをせず、
勉強や部活動などの名を借りて、友達と遊びまわる日々だった。
ある日
見てしまった。
文句ひとつ弱音ひとつ吐かずに、黙々と畑に向かうおじいや父の姿を。
「自分のために誰かが頑張ってくれている」
責任から目をそむけ、筋肉痛から逃げている俺の代わりに誰かが「それ」を背負っている。
人は、お金や地位、名誉といったつまらないもののために生まれてきたわけではない。
人間とは本来持って生まれてきた優しさ、誠実さ、謙虚さ、思いやりを高め、自分を幸せにしてあげるために生まれて来ている。
その愛こそが「ありがとう」
聖書も「貧しき者は幸いなり、病める者は幸いなり」と教えてくれる。
あたりまえのことを大切に思う感謝の気持ち。
「ありがとう」はきっと「ありがとう」を運んでくる。
そういう気持ちを胸に今日も、リンリンベル・メメントモリの店頭でお客さんとの一期一会を大切に待っている。
365日、どんなときも、
人として、美しく。
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